此処に足繁く通うようになってから、もう随分と経つ。
名うての大学病院で、患者も多いのだが、そんなざわめきも届かない。
最果て、といっても良いのではないかと思うほど、此処は静かで。


こつりこつり、響くのはただただ、私の足音だけ。

もしかしたらこの足音は、既にあの病室まで、届いてしまっているかもしれない。



彼女の、元まで。



ごくりと、唾液を飲み下す音が、嫌に大きかった。







〜幻の世に偽りの幸せを〜







「失礼します。」


すぅっと、なるべく静かに戸を開ける。
ノックはしない。いつも通りの時間に訪ねるから。

部屋の中に視線を走らせると、いつも通り彼女はベッドに居た。
肩を冷やさないためか、羽織るものではないのにブランケットをかけて、
窓から入る淡い光を頼りに、本を読んでいた。

視線が絡めば、至極嬉しそうに笑う。
パタンと本を閉じて、こっちに来て、と手招きする。





「今日も来てくれたのね、L。」

「はい。は今日は体調が良さそうですね。」

「うん、でもこれは外れてくれないの。」


勧められた椅子に腰掛けて、に視線を合わせる。

えへへ、と笑うは、確かにいつもよりも顔色が良い。
でも、示した腕には、点滴用の太い針が刺さっていて、
見ているだけで痛々しいのだが…今日はそれ以上に。


「どうしたんですか、それ。」

「あ、…ばれた?」


隠さないようにと、彼女の腕を取る。
点滴の針の刺さった腕には…鬱血の痕が見れた。

どうしたらこんな痕が付くのか。
尋ねようと顔を向けると、先程までの笑顔はどこへやら。
は至極不機嫌そうに眉間に皺を寄せて、頬を膨らませていた。


「さっきね、松田さんが此処にきたの。」

「松田…さん、が?」

「そう。それで、すっごく酷い事言うから、ちょっと暴れちゃったの。」





松田さんが、此処へ来たことは、そうそうなかったはずだ。
一体何の用事で、と考えて、ふと私は気付いた。
考えなくても、それしかないと気付いたのだ。





「何を…、に言ったんですか。」

「酷いのよ、L。」





先程よりも一段と、

の表情は険しい。



かと思うと、次の瞬間には泣きそうな顔になって。










「えるが、しんだなんていうの。もうずいぶんまえに。」










ぽつり、呟いたかと思うと、私の背中にの手が回る。

点滴の針が、乱暴に抜けたのだろう。

視界の端に、赤が映る。


点滴…精神安定剤が、流れていく。










「えるは、ここにいるのにね。こうして、まいにちきてくれてるのに。」


小刻みに震えるの体は、酷く熱くて。
それが怒りでなのか、泣いているからか、分からない私にはどうしようもできない。

それでも、この9年で成長した私の体は、間違いなくあの人のように、
の体を包み込めるほどには成長していて。
人付き合いがあまり得意でない私には、を抱きしめる事しかできない。

それがとてもふがいないと思うのだけれど、
たったそれだけでは泣き止んでくれて。



こんなにも、あの人の存在は、に必要なものなのだと思い知る。



「………確かに、酷いですね。」

「でしょう?物凄く真剣な顔で言うんだもの。」

「…松田さんの言う事は、信じなくていいです。」

「勿論。信じるわけないじゃない。本人が居るのに。」

………。」





は、もう私のことを、ニアとは呼んでくれない。
は、もう私に向けて、微笑んでくれることはない。



ただ、それでも。





「大好きよ、L。」



の1番傍に居る事のできる権利を手に入れて。
の1番の笑顔を見る事が出来る位置に居る事ができる。

口付ける事も、抱き合う事も。

その権利を手に入れたことを知ったとき。
驚愕と動揺、そんなものが足元にも及ばないほど。
幸せを感じてしまった私は、もう後戻りは出来なかった。



「…私も、が、好きです。」



髪を優しく梳き、口付ける。

身代わりでも良い。

あの人を想っていて良い。

これからのあの人は、私が創るのだから。

それを見て、が好きで居てくれる相手は、私なのだから。







幻の世を生きると私に、どうかこの先も。

変わる事のない、穏やかな、偽りの幸せを。







***あとがきという名の一人反省会***
「今度さー、ニア夢書こうと思ってるんだー」
「へぇ…どんなの?」
「Lが死んで、Lの最後の彼女がニアをLとしか見なくなる話」

…そんな会話をして、1週間後に、本誌にニアが出てきました。
予知かよ。そんな予知いらんぞ。

これはニア夢というよりニア独白っぽいよねと気付きました。
タイトルの「幻の世」は「はかないこの世」って意味なんですけど、
幻覚の中で生きる、っていう意味も含みたいな、と思ってつけました。
それでは、ここまで読んでいただき有難うございました。

2008.03.01 水上 空