朝の教室、ざわめきの中。
貴方の声は一際目立つ。
笑顔は空気さえも彩って、貴方色に染めていく。



扉を開けたら貴方に会える。



でも、今日も、それだけ。





貴方は近くて遠い存在。





こんなに傍に居るのに。
何かが、ずっと邪魔をして。
近づきたいのに、邪魔をして。







〜見えない、壁。薄い、ドア。〜







教室へ続く廊下。
子津の姿がそこにある。

教室に着くと深呼吸をして、ドアに手をかける。
今日こそは、と入った先にはいつもの光景。

子津の隣の席には人だかりが出来ている。
中心の人物はいつも変わらない。


。子津の隣の席の少女だった。


「忠之介、おはよう!」


子津に気づくといつも微笑みを返す。
隣の席になってから、挨拶を忘れられたことは無かった。
それに安心している子津が居ることも事実である。


「おはようございますっす、さん。」


子津が挨拶をすると会話を抜けて話をしにくる。


これもまた、日常。


「今日も朝練かね?ご苦労なことで。」

「僕は下手っすから。人一倍練習しないと駄目なんすよ。」

「そっか、無理しないでよ?根詰めすぎると良い事なんて無いんだからさっ!」

「はいっす。ありがとうっす、さん。」


気にかけてもらえることが嬉しくて、微笑む。


「気にしなくていいっすよ。思いついたこと言ってるだけっすから。」

「な…真似しなくても良いじゃないっすか!?」

「だって忠之介からかうと楽しいんだもん。」

「…それ結構酷いっすよ…。」


からかわれて、苦笑する。
どれもこれもいつもの事。
毎日繰り返される会話も、からかわれて苦笑する光景も。
何一つ変わらないまま。





そこには1枚、見えない壁が在るかのようで。
それ以上に進むことは無い。
進みたくても、進めなかった。





貴女に近づきたい。笑いかけて欲しい。
紡がれる言葉を独り占めしていたい。


「そう想うのは、悪いことなんすかね?」

「え〜?何か言った?」

「…何でもないっすよ。」


想いは壁にぶつかって。
自分に、当たって燻った。







放課後の屋上。
の姿がそこにある。

日向ぼっこをしながら、校舎裏に目を向ける。
今日もまた、そこにはいつもの影。

視線の先で1人の少年が努力する。
その少年はいつも変わらない。


子津忠之介。野球部の雄軍枠を狙う少年だった。


「頑張ってるね、今日も…。」


投球練習を繰り返す姿にため息をつく。
その真剣な瞳を魅せられてから、目を逸らせなくなった。
それに惹きつけられているがいることも事実である。


時折、子津は投球の合間に汗を拭う。
その瞳は真っ直ぐでひたすらに前を見ている。
これもまた、日常。


自分が何も出来なくて悔む。
真っ直ぐな子津の力になれない事を。
どれもこれもいつもの事。
遠くから見つめることしか出来ない自分も、子津の真剣な瞳も。
何一つ変えられないまま。





そこには1枚、薄いドアが在るかのようで。
それ以上に近付くことは無い。
開けることは出来るはずなのに、開けられなかった。





貴方に近づきたい。その瞳に映りたい。
貴方の隣を独り占めしていたい。


「そう想うのは、悪いことなのかなぁ。」


声に出したことに自分自身驚いて、苦笑する。


「…なんて、ね。」


想いはドアに吸い込まれ。
カチャリと、ドアに錠をした。







ダンッ…







不意に、耳に届いた大きな音。
それは、ぼうっと想い耽っていたを覚醒させるには十分な音だった。
音のした方を見ると、そこには子津の姿。



壁を殴り、その場にうずくまる姿があった。





「忠之介…っ…!?」










気がついたら、駆け出していた。
屋上から走って校舎裏に向かう。
途中で何度も転びそうになったけれど、何とか踏ん張って前へ進む。


速く、速く、速く。


校舎裏への道程が長くて。


早く、早く、早く。


気持ちが焦って、運動部でない身体がついていかなかった。










それでも、何故か心の中は静かで。
信じられないくらい、冷静な自分が居た。
校舎裏近くで深呼吸をして、荒れた呼吸を整えて。
それから、声を掛けた。


「忠之介っ!!」

「…さん。どうしたんっすか、こんなとこまで。」


子津は、泣いてはいなかった。

いつものように、笑っていた。


それでも。


それは表面的なものであった。

笑った顔の奥には、深い、悲しみが見て取れた。


「ちょ…黙って。手、見せて。」


つかつかと子津に歩み寄り、自分の手を差し出す。
すると、伸びてきた手に子津はあからさまに後ずさりをして、手を後ろに回した。


「な…何すか!?さん、止めてくださいっす!!」


どうやら、本当に手の状態は悪いらしい。
ここまで拒否する子津も珍しいのだから、相当悪いのだろう。

…拒否すれば拒否するだけ心配を掛けるということに気づいてない。

すっと目を細めて子津と目を合わせる。
と、観念したのか自分から手を差し出してきた。


「…これ…。」


瞬間的にそれだけしか、言葉が出てこなかった。
そこに在った子津の手は、血に染まっていた。
拳はが思っていたよりもずっと、紅かった。
そっと手を添える。





今度は子津は逃げなかった。
そっと、重なる2人の手を見ていた。










の白い手が、紅く染まるのを見ていた。
自分色に染まるのを、見ていた。
それが、ちょっと、綺麗だなんて。
それが、ちょっと、嬉しいなんて。
壊れた考えが浮かんできて、慌てて言葉を紡いだ。










「ちょっと、頑張っただけっす。平気っすから。」

「自分から壁殴っておいてよく言うよ…。」


笑って言う子津に対して、は多少怒った口調で答える。
いきなり自虐に走るくらいの心の傷を見せまいとする子津が、痛ましかった。
一方、怪我の原因をズバリ言い当てられた子津は、驚いた。
同時に、悲しんでいた。


弱い自分を、見せてしまったことに。
心配させてしまったことに。


「…見てたんすか?」

「ずっと見てた。」


目線を合わせたまま言い切るに、言葉に詰まった。
その瞳は真剣で、どうしても目が逸らせなかった。
無理に、笑うことさえさせてくれなかった。


「ちょっと、もどかしくて。僕だけ置いてかれてるっすから…。」


ゆっくりと、本音を口にする。
それは、どうしても格好悪いことのように思えた。
の前で、弱い自分を見せたくなかった。
しかし、はそれを望んでいることが分かったから。
子津は目を逸らすことなく、言い切った。

すると。







バシッ







「痛っ……。」


さっき壁を殴ったほうの拳を。
傷の上から、叩かれた。
血飛沫が2人の間に舞い、白い服を、肌を、紅く染める。


痛みは既に少ししか感じることができなかった。
感覚が薄れる手を見やると、その下には小さな血溜まりもできている。
止血したほうがいいのだろうか、と子津が考えていると。



不意に、の腕が、首に巻きついてきた。
抱きしめられた。



首筋に、少しぬるりとした感触。
その感触に、回された腕の力に。
動くことができなかった。


…さん?」

「…忠之介は頑張ってるじゃん…。私は、すぐ追いつけるって信じてるよ。」


動くことができなかった。
嬉しかった。
嬉しくて、言葉を失った。
本当は、心のどこかで言って欲しかった言葉を。
不意に、言われたから。
動くことが、できなかったんだ。





抱き付かれた状態のまま、時間が流れた。
ゆっくりと意識が現実のものへと戻るのを感じる。


抱き付かれた状態。


髪の香り。体温の暖かさ。


冷静になるにつれて、どんどんと顔が熱くなる。





「あ…あの…。そろそろ離してくださいっす…恥ずかしいっすよ…。」


口をついて出た言葉は、照れ隠しの言葉だった。
硬直したまま、手だけが宙を彷徨う。





抱きしめたくて、宙を彷徨う。

振り払いたくて、宙を彷徨う。





自分がどうしたいのか、分からなかった。



そんな子津の心情が分かったのか、は抱きつく手に力を込める。


動揺によって速くなる鼓動が伝わって嬉しかった。
重なる鼓動が伝わっていく。
溶けていくようで、嬉しかった。


「手当て、してあげる。うんって言うまで離してあげない。」

「…。そんな…。」


また、力を込められていく。
預けられる体重を支える。
躊躇いながらも腕をの背中に回すと、恐る恐る抱きしめる。


抱き返す力はとても優しい。


すると、はふっと目線を上げた。
その瞳はとても柔らかで。



夕暮れの空が染められるように、ゆっくりと顔が紅く染まる。



「みんなに追いつくんでしょ?忠之介。」


ふっと、見せられた笑顔。


紅く染まって。


魅せられる笑顔。


断りの言葉は浮かんでこなかった。


「…お願いするっす…。」


紅く染まる、笑顔。










これは、夕陽のせい?










「…はい、済んだ。」

「ありがとうっす、さん。」

あの後、すぐに保健室へ向かった。
丁度学校の保健医は職員室に向かうところだったらしく、治療の道具の場所だけ伝えて去っていった。
の手当ては適切で、素早かった。
あれほど滴っていた血も、見る見る止血されていく。
の手に付いていた血も、綺麗に洗われた。





少しだけ、悲しかったのは。
きっと、我侭なココロのせい。





「怪我酷いんだからもう今日は練習終わりね。」

「そ…そんな。監督に言われた特別メニューが…。」


あからさまに慌てる子津の顔を見て、はふっと笑った。
いつもの、明るい笑顔。
教室を染める笑顔だ。
近くで見るには眩しすぎて。
直視できなくて目を逸らす。


「1日くらいサボれよ、お堅いなぁ、忠之介は。」

「駄目っすよ…。頑張らないと、いけないっす。」


傷だらけで、それでも必死に頑張ろうとする子津。
いつもの、真っ直ぐな瞳。
夢を追い続ける瞳だ。
夢の障害にはなりたくなくて。
自分のできることを探した。


「…一緒に、帰ろうよ?」

「は…でも…。」


突然の申し出に、子津は間抜けな返答を返した。
の声は小さくて。
顔も俯いていて見れなかった。
教室では見れないを独り占めしている事実が嬉しかった。


「外暗いし。手当てしてて遅くなったし。」

「わかったっす。女の子を1人で帰らせるわけにはいかないっすもんね。」


ぴっと、指を指された先を見ると。
先ほどまで紅かった空は、どんどん闇に吸い込まれていた。
ニコリと笑って答えると、もいつもの調子で笑う。


「ありがと、忠之介。さすがジェントルマーン。かっちーぃ。」

「…からかわないでくださいっす…じゃぁ、行きましょうか。」


口から出るのは、伝えたい言葉じゃなくて。
照れ隠しの言葉だけ。















学校から暫く歩いた。
会話は弾まず、無言のまま時間だけが過ぎる。
目を合わせる事も無く、ただ、足を進める。
そうして、の家まであと少しのところで。





「「あの」」





2人は同時に口を開いた。
予想していなかった絶妙のタイミングに驚いて、これまた同時に顔を上げる。


「何?忠之介。」

さんこそ…何っすか?」

「先に言っていいよ。」

「そっちこそ先に言ってくださいっす。」


瞬間、目が合った。
恥ずかしくて目を逸らす。
動作が大振りだったのか、2人は背中合わせになった。


「駄目っすね、忠之介が言うのが先っす。」

「真似しないで下さいって毎日言ってるじゃないっすか…。」

「ごめん。忠之介からかうと楽しくってさ。」

「そんなあっさりと…。」


いつもの様にからかって。
いつもの様に笑いあった。


でも。





後ろから、背中から聞こえる声は初めてだった。





「で、忠之介の話って何?」

「…さんが言ったら言うっす。」

「忠之介が言ったら言う。」





平行線をたどる会話。
どうやら、本当に2人とも譲れないらしい。
終わりなき会話に終止符を打ったのは子津の方だった。


「…じゃぁ、せーので言うって言うのはどうっすか?」

「良いよ、乗った!!」

「じゃぁ、いくっすよ。」


背中越しにコクンとが頷くのを確認してから、声をかける。
深く息を吸い込んで、大きな声で叫んだ。





「「せーのっ」」










「「明日も一緒に帰(ろうよ・りませんか)?」」





吃驚して、振り返った顔。
お互いの顔は紅く染まって。

大きな子津の手、小さなの手。
家までの距離はあまり残っていなかったけれど。
繋がれた手は離されることは無かった。















見えない壁が、邪魔をして。
薄いドアが、邪魔をして。
すぐそこに在ることに気づいても、近づけなかったんだ。
臆病な自分が、拒否してたんだ。



それはたった一言で崩れた。
それはたった一言で開いた。



気づかなかったんだ。
気づいていたんだ。
難しかったんだ。





でも、簡単だったんだ。





見えない壁。
崩すチカラは、笑顔だったんだ。
貴方の笑顔が、チカラの糧になったんだ。
僕の、勇気になったんだ。



薄いドア。
開くキーは、瞳だったんだ。
貴方の瞳が、ココロを捕らえたんだ。
私の、一部になったんだ。





でもそれは1つじゃ意味を成さなくて。
2つだから、意味を成した。
2人の想いがあったから。
壁を崩して、ドアを開けて。
近づけたんだと信じたい。



ここから、また。
見えない壁を、崩していこう。
薄いドアを、開けていこう。
貴方と、2人で。







貴方と共に、紅い景色を見よう。
紅く、赤く。
燃ゆる、恋を映して。










今日からは、違う景色。







***あとがきという名の1人反省会***
子津夢です。タイトルがめちゃめちゃ微妙です。
何でこんなタイトルにしたんでしょうね…。

あ、確か先輩にどんなのがいいですかねぇ…と助言を頼んだら、
「じゃぁ、お題は"この扉を開けたら"で。」
とか言われたのがこのタイトルの由来です。(多分

…途中何度かタイトルを"紅(あか)"に変えようとしました。
が、ラスト決めちゃってたので押し通しました(ォィ

何気にこの小説今までで一番気に入っています。
皆様も気に入っていただけると幸いです。

それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました!!

2004.12.29 水上 空